電波男
本田 透 / 三才ブックス
満足度:★★★★☆
総合評価:★★★☆☆
amazonオススメ平均:★★★★?
(?・・・星半分)
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完全に、読む人を選ぶ本。
しかし、選ばれなかった人にこそ、最後まで読んで欲しい---
”親に虐待された人間は、親になれるのだろうか
親に愛されなかった人間は、自分の子どもを愛することができるのだろうか。他人を愛することが、できるのだろうか。
俺が悪いのか・男が悪いのか。母が悪いのか。母を捨てた男が悪いのか。母を憎んだ俺が悪いのか。
男と女が愛し合えるのだろうか。やはり無理なのだろうか。それでも俺は本当の愛が欲しい。
だが女は、誰一人として俺を理解しなかった。罵り、喚き、そして俺の名前や作品のアイディアを勝手に盗んだ。
俺と同じ名前のヒロインが少女漫画誌に登場したのを見たとき、
もう、何を言っても、女には伝わらないのだ、と、俺は思い知らされた。”
”愛されずに人殺しになる人間が居る
愛されなくても、オタクになっておとなしく生きている人間が居る”
【加藤レンジャーからの一言】
オタクであることで、自分と、そして周囲を守る。
誰も信じない。裏切られない。傷つかない。これが筆者の生きる術。
この、自分の弱さを超人並みの精神力で強さへと変えた筆者の答えが、
私には一種の悟りのように思えるのだ。
それが万人に理解されなくとも、 いくら周りから見て孤独であろうとも、
彼等はこれっぽっちも”自分が孤独”等と思っては居ない。
むしろ我らこそが”勝者”なのだ、と。
(今回のレビューは、社会問題・性・犯罪と結びつけて書いていきたいと思う)
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
本田 透
1969年神戸生まれ。早稲田大学卒。出版社勤務の後、フリーライターとなる。1996年よりWebサイト「しろはた」を運営。『新世紀エヴァンゲリオン』をネタにした「日刊アスカ」は一部に多大な影響を与えた。2004年に「キモメン王国」の建設を宣言し、モテない男達の聖地となっている。現在は脳内の妻や妹との会話を中心にコンテンツを更新
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【関連情報】
「しろはた」著者HP
【加藤レンジャーのレビュー】
ずっと読みたいと思っていた本である。学校の図書館に入荷要求してみたものの、「内容が内容だから入れてくれるわけ無いか」と思っていた。しかし入荷されたのだ!!ウッソォ!ビックリして早速読んだ。それでは書評いってみよう。
この「電波男」を読むという事は、ある人にとっては苦痛を伴う行為になるかもしれないが、私が思うに、「オタクでない人」程、この本を読んでみたらよいのではないかと思う。ただ、オタクでない人がこの本を読んだら(とくに世間でお一人様と呼ばれる人たち)理解に苦しむか、または数ページで投げ出してしまう様な気がするのだが・・・何も理解しろとか、共感しろと言っているわけではないのだ。この筆者も、「負け犬や恋愛資本主義に踊らされる女達」に共感しようとはしていないが、割切ってはいる。それが良いのかどうかは解らないが、私は、
「認め合えばよいのだ」と思った。様々な視点から社会が見れたなら、どんなに良いことだろう。
私自身、この筆者の考え方が”素晴らしい!正しい!”とは思わないが、「なるほどそういう考え方もあるのか。なかなか良いのではないか」と納得し、最終的に
”俺は二次元で生きていくんだ!この本を出したことで結婚なんて物はできないけど(する気も無いが)、俺には脳内妻のみさきがいるからそれでいい!!”と言い張った作者の堂々たる姿勢に、力強さとカリスマ性を感じだ。
読み進めていくうちに、心頭が熱くなる場面が幾度か有る。語りかけるように、訴えかけるように書き連ねた、作者の文章力にも乾杯だ。決して文学的なものでは全く無いが。
【恋愛至上主義について】
確かに一昔前は「カンチ、セックスしよう!」という『東京ラブストーリー』の台詞がメディアによって流行った様に、恋愛=セックスの構図ができていたように思う。そしてそれから数年後、セックスの商品化によって、恋愛の価値の大暴落。恋愛=セックスの構図に疑問を持つ人たちも現れた。電話一つで買える愛って何だ!?シャネルのバックと引き替えの恋って何だ!?そうやって疑問を持った人たちがメディアから離れ、「純粋な愛」を探すために”二次元”に飛び立ったのだ。上に書いた恋愛の大暴落によって一気に急降下したものは他にもある。”性”だ。人それぞれではあるが、「若い内にやっとかないと損する」という価値観を持った男性が増え、はたまたそれを「これが永遠の愛ね!それなら全部あげるよ」と勘違いした女の子達が増え、性に対する認識は、それはそれは酷い物となった。その犠牲になった人たちが何人いることだろう?嫌になった男子は(女子もそうである)現実の異性を捨てて、いわゆる”萌えキャラ”に癒されるようになったのだ。
果たしてそれの何処が「キモイ」のであろうか。現実の世界に居る
「学歴は?金は?顔は?生い立ちは?セックスは上手?」等と結婚条件に挙げてくる女性と、バーチャルだが純粋無垢で
「あなたが何であっても私は好きだよ」と言ってくれる女の子。どちらに夢中になるかといえば、それは後者ではないだろうか。(人それぞれ違うだろうが)この本を読んでいると、むしろそちらのほうが人間として美しく思えてくるのだ。
一昔前までの「カンチ、セックスしよう!」の流れが変り、今は「純愛」ブーム。東映から流れる「世界の中心で愛を叫ぶ」「いま、会いにいきます」そして「電車男」。筆者は「みんな踊らされて居るんだ!!」と訴えている。(私自身、市川拓司が恋愛小説の教祖だと思っているので何も言えないのだが。)メディアによる「電車男」の都合の良い製品化---後半をカットして見事純愛物語にし、売り物にした---それらのことから考えても、作者が大衆に対して「踊らされている」と思うのも仕方がないことだ。
「踊らされてるんじゃねぇ踊ってんだ!!」byエル・ミラドール~展望台の唄~と、私自身、言ってみたいものだが、言えないのが悲しい。
【経験】
こんな事を現実の世界で言っては笑われるかも知れないが(笑いたい人には勝手に笑って欲しい)、私も”妄想”によって救われた経験を持つ。「ああもう嫌だ、もういっそ死んでしまえたらいいのに。それができないのなら殺してしまえたらいいのに」そう思っていたとき、毎日毎晩、暗い押入れの中で考えていたことがある。
『本当の私は今、病院のベッドの上で寝て居るんだ。そしてその私が見ている夢が、今この私。そうだ現実に戻ったら、私には優しい友だちが居て、世間体など何も気にしない普通の家族が私を温かく迎え入れてくれるんだ。よし、がんばろう。あと一日。あと一日!』そう毎日自分に言い聞かせてきた。
「バッカじゃないの?妄想でしょ?」と言われても、私を含め、それで救われる人たちが居るのである。それを頭ごなしに否定して、
「犯罪者予備軍」と言い放ってしまうのは、あまりにも浅はかではないだろうか。
両親も死に、阪神大震災で職も家も失った筆者は、下のように思った。
”「生きられない・・・」
と、毎晩トイレでうめいていた。
だが、その間も、俺の頭の中では、妄想がガンガンと渦巻いていた。二次元の萌えキャラとの脳内会話を続けることが、俺の鬼畜ルート行きを防いでいたのだ。
絶望し、精神的に死にかけている人間の脳は、それでも生き続けるために、眠っていた妄想力を目覚めさせるのだろう。
そんな人間の生きようとする意志を、引きこもって萌える事で自殺や鬼畜化から自分を守ろうとする姿を、
なぜ恋愛資本主義の人たちは、鼻で笑い、差別できるのだろうか”
【想像力を元に犯罪を考える】
宮沢賢治と
都井睦雄。生い立ちや経験がよく似ているこの二人がなぜ正反対の生涯を過ごしたのか。
”心が優しいから、オタクになったのだ。自分を傷つけられても他人を傷つけたくないから、オタクになったのだ!!”
そうやって他人を傷つける事無く静かに過ごした宮沢賢治と、女にバカにされて逆上して津山三十人殺し---(後に『八つ墓村』のモデルになる)を働いた都井睦雄。
『実際、弱いのにはもうこりた
今度は強い、強い人に生まれてこよう
実際俺も不幸な人生だった
今度は、幸福に生まれてこよう』
<津山三十人殺し>都井睦雄の遺書より
なぜ彼の頭の中には”自分が変わる”という選択肢が無かったのか。”自分から不幸を幸福へと変えるんだ”という選択肢を思いつかなかったのか。私は、その
『想像力の欠陥』が、都井睦雄の最大の欠点であったのだろうと思う。(筆者は、『to heart』をプレイして妄想すれば一件落着、と唱えて居るが、ここは一つ私の意見を聞いて欲しい。)私は別の本で、『想像力の欠陥とそれに伴う恐ろしい未来』という文章を読んだのだが、そこにはこう書かれていた。”明日のこと”は想像できても”十年後”が想像できない。
”明日、自分が友だちを殺しているイメージ”がリアルに想像できても、
”その後自分が置かれる状況と、その後の人生”を考える『想像力』が欠陥している。全ての犯罪がそこにリンクしているとは思わないが、一理あるのではと思う。しかし妄想の方向性を間違ってしまうと、神戸小学生殺害事件の酒鬼薔薇聖斗の
『脳内から声がする。「殺せ」「殺せ」「殺せ」』・・という結果にもなりかねない。だから一概に”妄想力・想像力”とは言えないのだ。
【最後に】
作者の名前を見て感づいた人も居るだろう。冒頭にも書いたとおり、某漫画(といっても、こちら、加藤が崇拝している漫画であるのだが・・)「フルーツバスケット」の作者が、本田さんの立ち上げていたサイト「日刊アスカ」(エヴァンゲリオン同人サイト)の読者で、
『本田透』という名前を主人公の女の子に勝手に使っていた・・という事らしい。私が、特にその話を聞いて高屋奈月先生のことをどうこう思うということは全く無いのだが(好き嫌いは私自身で決めるものでありますので、周りに左右されたくはありません)しかし、真実が知れて良かったと思う。私自身、正直『妹☆コレクション』の筆者はペンネームパクってるなぁ、と思っていたクチなので。(すみません、本田さん)
私が今回読んだのは、二千五年六月版(四刷)なのだが、P258の「to heart」が、「to herat」になっている所を見て、親近感を覚えた(笑)。私のレビューで誤字脱字が絶えないように、この筆者の大変人間らしい部分をかいま見た気がし、微笑んでしまった。私は筆者の、
気取らず、他人に危害を加えず、他人を思いやり、静に生きていく。という謙虚さが大変好きであり、正直、友だちになりたいとも思った。私がこういう事を言っては、筆者に失礼だろうか。私が筆者の学生時代にワープして、「一緒にあそぼうや!」と言いたい。いや作者にとって私など「お呼びでない」存在であるのだが。
なぜなら作者は愛して止まない脳内妻のみさきに毎日スクリーンから微笑まれ、幸せ過ぎる毎日を過ごしているのだから。
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一時の関係に酔いしれて、ベッドの中で甘い言葉を囁かれて悦に浸るよりも、むしろ自分が死ぬまで永遠に終わらない愛を抱き続ける方が、幸せなのではないか-----そう思った。しかし、しかしそこには
”暖かさ”そして
”人の温もり”が、無いのだ。
バーチャルでの純粋な恋愛も、大変魅力的だ。魅力的、だが。
私は体温のある人が好きだ。温かで抱きしめてくれる人が好きだ。バーチャルでない恋愛は、確かに痛みを伴うかも知れないが、痛みながら、「自分を理解してくれる人はきっといる」「そのために私は自己啓発して前進しなければ」と信じて生きたい。私の考え方は甘いだろうか。
だから私の総合評価は★★★☆☆と、一般の評価よりも多少辛口につけた。
やはり、私にとって生身の人間は、他の物には代え難いものであると思うのだ。生きて、息をしている人が、私は大好きだ。